万物に片想い!!(byいわしー)

役者でプログラマーでなまけもののブログ

RADのライブと恥ずかしい人生論のはなし

おはこんばんちは!

 

チクボンです。

 

4/29にRADWIMPSさいたまスーパーアリーナのライブに行ってきました!

もう素晴らしくて。RADはよくも悪くも野田洋次郎さんの人間性が濃く出ていて、一人の人間に色々な要素があるように本当に色々な音楽があります。

だから RADのライブは一つの人生を見ているみたいです。

 

MCではなんのために音楽をやっているのかという話が多く出てきて、それは洋次郎さんにとってなぜ生きるのかということとほぼ同義に感じました。

 

生きる意味は何か。

 

ずっと考えているこの議題について、二十数年間で作ってきた仮説のもやもやしていた部分がカチッとまとまった気がします。

 

私の思うに生きる意味は本当はないと思うんです。

少し残酷な話だけど、冷静に考えて、人間が生きているのは地球上の自然現象の一つで、何かの目的があって生み出されたものではないはずです。ふとした拍子に溢れたジュースが乾いて蒸発していくように、適当な理由で生まれ、適当な理由で消えていくと思うんです。砂漠に舞う砂埃と変わらないと思います。

 

もし、生きることに何かしらの意味があるとして、例えば良いことをすると良いことがあり幸せになれるとするとします。もしそうだとしたら津波で沢山の方が亡くなった時、その人たちは全員悪い人だったということになります。そんなことは絶対にあるわけがありません。すべてを取っ払っていうと大きな波がたち、沢山の人間が流されたという自然現象があるに過ぎず、そこに何の意味もありません。

 

また、人生を通して立派な人、より良い人になるのが生きる目的だとしたら、生後間もなく亡くなった赤ん坊は生まれた意味がなかったのでしょうか。そんなはずはありません。人生の長さに関わらず生きている、生きていたという自然現象に価値の大小はありません。

 

生きているということ自体に意味はないんです。私たちは自然現象に意味をつけているだけなんです。

例えば信号機は人や車を止めたり進めたりする力がありますが、信号機が磁気などを発して物を動かしているわけではありません。私たちが赤、青、黄の意味を共通認識として持っていることで信号機は物を動かす力を持っているのです。ということは力の本体は信号機自体にあるのではなく私たちの意味づけの方にあるということになります。少し広義になりますがここでの自然現象は信号機の"光る"という現象です。

 

"文字"という物も意味づけの最たる物かと思います。紙に模様を描くという、自然現象として影響力の少ない物こそ、逆に意味をつけるのに最適です。紙幣にしてもそうです。

 

この世は"自然現象"と"意味づけ"のみで作られています。

そして2つはそれぞれ大きな力を持っています。結局は自然現象の世界がすべてとも言えますが、意味づけの世界がすべてとも言えると思います。2つは車輪の両輪のように世界を形作っています。

 

そして先ほど生きる意味がないといったのは"自然現象"の観点からいった話です。私たちは意味のない世界に好きなように意味をつけることができるのです。

 

それは各宗教もそうですし、常識という物もそうかと思います。そしてもう一つ、自分個人の思想、価値観という物があると思います。意味づけの世界というのは人によって実に様々で尚且つ自分の世界そのものと感じるかと思います。悩みのほとんどはこの意味づけの相違によって起きていると思われます。宗教戦争もそうですし、夫婦喧嘩、学校に馴染めない、社会的劣等感を感じるなどすべてそうかと思います。それは『常識』と言う意味づけの世界と『自分の思想』という物が別々のものという認識がなく、自分の思想と常識の意味づけに相違がある際に自分の世界を消そうとしたり、世界に自分の居場所がないと感じるということかと思います。

大事なことは、意味づけにも価値の大小はないということです。『社会』『家族』『学校』『国』『自分』それぞれに意味づけの世界があり、それらすべては同じ大きさで、どちらが大事と言うことではないです。上の例で言うと『社会』『家族』『学校』『国』と言うのは複数人が同じ意味づけを共有することにより、それが一人の人間のように機能することが狙いであり、そういった世界は一人の人間の中にすべて存在するわけです。それは『自分』の意味づけとイコールである必要は全くなく、『自分』の意味づけは自分しかわからないのでそういった意味ではしっかりと認識する必要があります。その意味づけの世界たちの折り合いをつけることで悩みは発生するのです。

 

...と言うのが私なりの仮説です。これは自分の経験を元に冷静に分析したことで、自分なりに納得はできているのですが、何かが足りない。というかこれはまだ哲学や様々な課題に向かうための前提のはなしかと思います。

 

そしてこの間の桜と太陽と毛布の話。(ぽかぽかのはなし参照。読み続けてほしいのでリンクは貼りません)桜も太陽も毛布も優しくあろうとか役に立とうという気持ちがないのに人は優しさを感じ、役に立っていると感じるので、人間もただありのままそこでいるだけでいいのではないかというはなし。これも自分なりに納得はできました。この考え方のおかげで私なりには非常に気持ちが楽になったと感じました。

 

しかし、それでは自己実現欲は何のためにあるのかという問題があります。存在するだけでいいのなら、この先の人生をどのように生きていけばいいのかわからなくなります。夢と言うものの否定にもなります。

 

それが今回のライブで答えが見つかったような気がします。

 

MCで洋次郎さんが言っていた、みんなが受け入れがたい曲を作ることもあると思うけど、今の自分が考えていること、感じているものを形にすることが自分と音楽との約束だって思っているから作っていきたいということ、そしてまだまだ作れてないものがある、理想の自分にたどり着いていないと言うこと、それを聞いて思ったんです。

人生とは作品づくりではないか。

自分の価値観を信じて、自分としてこの作品はいいと信じて、完成することはないんだろうけど完成を目指して自分と言う作品を作っていくことが人生なのではないか。

 

それは自分にとってしっくりくる考え方でした。

作品作りと言うものも何のためにするのかはわからないものです。誰のために作っているのかもわかりません。そして終わりはありません。もしかしてこの考え方があるのとないので、あまり変わらないかもしれません。

しかし、自分の生き方を作品と捉えることで"目的がない"ということが受け入れられますし、対価がなくても当然です。

ありのままそこにいれば良いというのは半分正解ですが、存在するだけでなく、自分なりの生き方でそこに存在するというのが正しいのかと思います。自分の価値観に基づいてそこに存在することにより、少なくとも周りに安心感を与えることができるかと思います。

 

おそらく、この考え方は自分にっとての意味づけの世界なんだと思います。ライブと言う人生のかけらが私に教えてくれたんだと思います。

 

だからこの世は人生博物館。たくさんの人生、生き方と言う作品を見て刺激を受け、お互い創作活動を続ける。楽しすぎますね。

 

だから〜

ライバルだかんね!負けねぇーかんな笑!

 

ばいちゃ