おはこんばんちは!
チクボンです。
最近は北海道で地震があったり、
関西で台風があったりと災害が多いですね。
私は昨日、流産でなくなってしまった甥っ子(姉の子供)の納骨でお寺に行きました。
お寺の境内は金色に輝いた蓮やら龍やらがあって、
奥には仏像があって、手前には大きなおリンがありました。
仏様の前にお骨が置かれ、それはこちらを向いています。
私たちと境内の間は異なる世界の隔たりだとお坊さんが話します。
私は小さいころ、お葬式や法事などでみんなが真面目くさった顔をしている時に
なぜかふざける癖があって怒られたななんて思い出しました。
みんなに笑って欲しかったのか、自分が本当は悲しくないのに悲しい振りをするのが嫌だったのか、まあ多分みんなが真面目な顔をしているのが恥ずかしかったからだと思います。
今回も自分は悲しいのか悲しくないのかよくわかりませんでしたが、青空の下、お坊さんがお墓の中に、お骨が入った入れ物を置いた時にはなんだかグッときました。
私は宗教が嫌いです。
大っ嫌いです。
けど私はきっと、元々は宗教的世界にどっぷり浸かってるような人間で、頭の中は宗教的観点でいっぱいなんだと思います。
私はよくこのブログで、
この世の全ては自然現象で、それに意味を付けているにすぎないと書いています。
それは私が元来、科学的な思考の人間ではなく、論理的でなく、物質的でないからです。世界の全ては脳みその中で起きていて、現実世界なんてどうでもよかったんです。周りが私につける意味付け、私が周りにつける意味付けが全てでした。意味付けの世界のみに生きてしまって、人生の意味、生きる意味がわからなくなって、どう考えても自分はいない方がいい人間としか思えなくて、でもそんなことある?って気持ちが拭えなくて、考え続けた結果、人生はただの自然現象で、生きる意味はなくて、自分はただ有機生命体として発生したにすぎないのだという結論にたどり着きました。それはある意味絶望的な発見ですが私にとっては救いでした。
だから私にとっての宗教があるとしたら科学や物理です。
この世に実体化している物質を信じ、誰かに優しくするだけでなく空腹を満たすべきで、立派な事をいうのではなく物理的な問題を解決するべきだと思っています。
私がプログラマーをしているのは「答えのある」ことが何一つできないというコンプレックスを克服したかったからだと思います。文章や絵が好きだったのは明確な答えがないので適正な批判を受ける事もなかったからです。答えがある事は自分ができない事が客観的にわかってしまうので怖かったんです。それと向き合いたいと。
だけど、なんだかそれもそれだなーなんて思うんです。
空腹が満たされようが、生き延びようが、物質的に正常だろうが、
やっぱりそれだけでオッケーなんて思えるわけなくて、
こうやって一つの命が亡くなった時にアホくさいくらいに丁寧に扱うのってすげーなって思ったんです。
甥っ子会いたかったなー。
キャッチボールとかしたい。俺下手くそだけど。
以上、チクボンでした。
ばいちゃ