万物に片想い!!(byチクボン)

IT見習いの個人的なブログ

自他のはなし

おはこんばんちは!

 

チクボンです。

 

最近は急にとても寒くなったりして体温調節が難しいですね。

体調にはくれぐれもお気をつけください。

 

少し前に「思った事書くぜ!」って言っておきながら、ここ数回の記事は何かの紹介だったり知識の引きらかしだったりして、スゲーつまんねー感じだったので、思った事書きます。

 

最近ツイッターで、外国の4,5歳くらいの女の子が、キレキレのダンスを踊ってる動画が流れてきて、なんだかその様子がエンターテイナー感が出てて、サマになってるがおかしくて周りの人が笑ってるという動画で、僕も笑ったんだけど、

なんとなく思ったのは、彼女はどのくらい大人達を喜ばせようとしていたのだろうかというところ。

これは以前書いた「太陽が暖かいのも、桜が綺麗なのも、人間のためにそうしてくれているのではなく、ただそれぞれが、それぞれの在るべき形で在るだけなので、わざわざ優しくあろうと思わずとも、君が君らしく生きて、誰かのそばにいるというのが大事だと思う。」という事と同じような事ですが、やはりこの理論にも人生の意義について納得仕切れる回答にはなりきっていないという事でモヤっとしていました。

 

頭の中に『自分のために生きるか』『他人のために生きるか』という問題がでーんと横たわっていて、人生において何かに付け迷ってしまったり、後悔してしまったりしてしまう人は多いのではないでしょうか。

これは厄介な問題で、双方をちょうどいい塩梅にしようとしても、あちらを立てればこちらが立たずというようになってしまい難しいものです。

しかし、大人より人生経験がずっと浅いはずの子供が、時に驚くほど優しい言葉をかけてくる事があります。「寒いからマフラ巻いてあげる」とか「ママは僕が守るから大丈夫」とか、大人が言ってたら惚れるレベルの優しさを持っていたりします。あっ私はママじゃないです。22歳男です。かわいい姪っ子がいます。こないだ告白されて、プロポーズもされました。羨ましいだろグヘヘ。話が脱線しました。おそらく子供は『自分のため』と『他人のため』の線引きすら意識していないと思います。私達は『自分のため』か『他人のためか』を必要以上に意識し過ぎなのかも知れません。

思い返すとこの線引きを意識しない感覚は少し心あたりがあります。スポーツをする時、楽器を演奏する時、絵を描く時など、「別に自分のためでも他人のためでもないかも」みたいな時があります。ゾーンに入るなんていう時がありますが、そこまでいかなくてもそのもっと落ちついたバージョンなのかも知れません。

 

ただ、そうは言っても意識してしまうんです。勝手に意識してしまうことに対して、それは良くないことだと思おうとするのはストレスにしかなりません。きっと意識してしまうのは、他人のことを考えない人に迷惑をかけられたことがあるからで、そういう人は『他人のため』なんて露ほど意識していないことがほとんどで、そのことに非常に腹が立ったということがあるからだと思います。

この場合をよくよく考えると相手はおそらく『自分のため』を意識していると思います。寂しいんです。以前、50歳を過ぎた派遣社員のおじさんと仲良くなったことがあります。すごく私に良くしてくれて、毎日飴をくれて、旅行のお土産もたくさんくれました。

けど話を聞いていると、牛丼屋で「肉が少なすぎる!」と店員に怒鳴り散らしてやったとか、歩きスマホをしてる若い人にぶつかってやったとか、そんなことをさも良いことをしたように語るんです。

50歳過ぎて派遣社員というのも自分自身気にしているようで、周りのプロパー社員に対し、変な敵意のようなものを抱いているようでした。もちろん周りもそんなその人を避けるのでおじさんは孤立していました。

けどそんな人も、私が話を聞いている時はすごく優しいおじさんでした。もう普通の人以上の優しさです。じゃあ、私がたまに街で見かける、怒鳴り散らすおじさんは、本当は悪い人じゃなくて、寂しいだけなんだなと思いました。

 

デール・カーネギーの「人を動かす」という本に「話を聞いてもらいたいというだけで、病院に通う老人が山ほどいる」ということが書いてあります。

誰もが自分は重要な存在でありたいと思っており、その重要感の満たし方が違うだけだということがこの本の考え方の基盤です。

そして街で怒鳴るおじさんのような人は他人からの愛情を得られる自信がなく、他人を怒鳴り影響を与えることで重要感を満たし、他人から得られない愛情を自分自身に向け、自分を守っています。他人のことが考えられなくなってしまい悪循環になってしまいます。この循環はやはり他者から関心を持ってもらうということでしか抜けられないでしょう。

 

さて、話は誰のために生きるかでしたね。人間の重要感を満たすという欲求は非常に強く、また、それは自分自身だけで満たせるものではないことがわかりました。ではやはり他人の重要感を満たして、自分に見返りが来るのを待つ?ということになるのでしょうか。

 

それも一つですが、見返りを求めると最終的にロクな結果にならないことが殆どかと思います。『嫌われる勇気』の アドラー心理学的には干渉が一番悪いことです。他人の欲求を満たすために生きるということは、他人の人生を生きているということになり、自分の人生を他人のせいにし、他人の人生に自分が首をつっこむ状態で非常に良くないというものです。人は他人の欲求を満たすために生きるのではなく、共同体のため、全体にとって一番良いと思う行動をすべきだというのがアドラーの主張です。

 

ただこれは綺麗事で実際みんなのために動ける人なんているのでしょうか。人は重要感を満たしたい欲求がすごく高いのに。デール・カーネギーアドラーと逆で「どんどん褒めていこう!」というようなスタンスですがそっちの方が現実的ではないでしょうか。

『人を動かす』VS『嫌われる勇気』

けどこの2つに共通している部分は「他人に関心を持つべきだ」というところです。干渉するかしないかはともかくとして。

少し前に載せた記事で『ペットと野生はどちらが幸せか』という話が出てきましたが、今回の話題もそれに近いかもしれません。

人間が野生なのかペットなのか。またどちらであるべきなのか。

アニメ『サイコパス』でもそのようなことが主題に置かれています。檻の中で絶対的安全の代わりに自由を失うか、檻の外でどこにでも行ける自由を得る代わりに弱肉強食の世界に身をおくか。

 

私が思うのは、檻の外で協力して生きているのが本来の集団の在り方だということです。

 会社であっても、家族であっても、檻を作るのではなく、檻の外でも一緒ならば生きていけるという感覚が大事で自然かと思います。

 

あー長くなってしまいました。

今日はここまでにします!

 

よい一日を(^^)

 

ばいちゃ